ゆうくれない

何かを観た感想だったり諸々書き連ねた何か

ストーリーオブマイライフ感想 故郷を捨てたものたちへ

2019年の初演と2020年の韓国版を観て、もうお腹いっぱいだったけど今年のどうしよっかなーとうだうだしていたんですが、ご縁があって初日の田代平方組が観れました!人生運とタイミングが大事!!

 

初演を乗り越えたということもあってか、二人のキャリアの積み重ねの賜物か、初演よりも満足度が非常に高いものとなっていました。ストーリーとしてきちんと成り立っていましたね。というか初演は2人で役替わりでやっぱり稽古時間足りなかったでしょ・・・?と思ってみたり。

初演と再演で演技の差異はあるものの、田代アルヴィンは相変わらず圧が強いし(けどそんなに暴れまわったり騒がなくなりました)、平方トーマスは都会で暮らすには厳しいほどの優しい心の持つ人間でした。

 

ストーリーオブマイライフ、大筋としては人の死を受け入れる物語なんだろうなとは思うのですが、個人的にウェイトを置いて見てしまう点がいくつかあるかなと思うので、はっはーんこいつはこういう面で見るんだなくらいに留めてください。

単純に身近な人を亡くす経験不足と、なんやかんや言ってもしょうがなくない?(と言ってはもともこもない)精神があるからで。とは書いてはいますが、数年たったら考え方も変わってるかもしれないので書き残します。ブログ、そういう使い方。ネタバレあり。

 

人を亡くして前を向いて生きていく話なのはそうなのですが、私が捉えたのはその選択肢をとることの「残酷さ」です。

この話の根本からみていくと、よくあるお涙頂戴系だとすると、アルヴィンが幽霊として出てきて、トーマスとの会話を通してアルヴィンの死の原因が判明し、最後に仲直りして終わり。だとわりとよくあるすっきりする話になるなと思いませんか?

別にすべての演劇がすっきりする必要はないと思いますが、ではなぜこのような構造になっていないと考えている理由について。

1.アルヴィンが幽霊ではない。

2.そこに無い物語を探さないでが提示すること

 

まず、1.アルヴィンが幽霊ではない。

 

これはアルヴィンが登場したときにトーマスが驚いていないので、まず幽霊ではないのが明白。韓国版だと驚くトーマスがいるらしいので、そうなると解釈が変わってくるところ・・・。

あとはあの空間がトーマスの脳内というか記憶の図書館で物語が繰り広げられていきます。

じゃああのアルヴィンなんだというと、過去のアルヴィンとの会話から構築されたイマジネーションアルヴィンかな?と。しゃべる言葉が過去の回想でアルヴィンがしゃべっている言葉をしゃべっていることに注目です。

となると、今回の舞台上のトーマスとアルヴィンの会話、ほとんどトーマスの自問自答ということになります。とすると、本当に言葉が聞きたい本人の「新しい言葉」はでてきません。ひたすら過去の会話の再生産が起こります。

(ただここで謎なのが、♪すごいよねの曲や、授賞式のアルヴィンのリアクションのあのあたり。あれってトーマスがアルヴィンのこと見ているわけではないので、あのシーンはまんま第三者目線でのアルヴィンのリアクションなのか、トーマスの被害妄想なのか・・・)

 

そうなると、トーマスが一番知りたい「アルヴィンの死は事故なのか何なのか」という問いに対するアンサーは一切出てきません。過去に一緒に見聞きしたことしかわかりませんから。

そしてそれは、冒頭のアルヴィンで提示され、そして「そこに無い物語を探さないで」に続きます

 

2.そこに無い物語を探さないでが提示すること

この舞台で繰り広げられる回送シーン、おそらくトーマスは過去の思い出を紡ぎだして、アルヴィンの死因を探ろうとします。しかし、当たり前ながら当事者でもなく、現場に居合わせたわけでもない彼はその原因が分かりません。

そして脳内アルヴィンから「そこに無い物語を探さないで」と言われます。

そのままといえばそのままですが、「わからないことはわからない」ということです。

遺書でもあればわかるかもしれませんが、おそらくそれもな無さそうです。

舞台の冒頭から、ハロウィンの仮装で同じ物語が好きで出会った二人、幼少期に微笑ましいエピソードで友情をはぐくむ二人、ただそんな過去があったとしても、トーマスの大学進学を期にどんどん二人の関係は悪化します。

あんなに仲が良かったのにもかかわらず、そんな幼馴染の死因はわかりません。

ではなぜか。最近のアルヴィンを知らないこと、幼馴染とはいえそれはあくまで過去の関係でしかないからです。そしてその悪化した関係をトーマスは修復できませんでした。

でもそれはもうどうしようもありません。そしてそのどうしようもない事実を

「そこに無い物語を探さないで」という言葉が提示します。

無いものは無いんです。この結果は成るべくして成りました。

 

よくありがちな、主人公が後悔したら後はすべてうまくいく!とかそういう話ではありません。アルヴィンはもうこの世にいないため、過去の謝罪もできず、死因もはっきりとわからないままです。

 

このため、これらの話から受け取ることは、

一度起こったことはそのままであり続ける、取返しのつかないことはどうやっても取返しがつかない、過去いくら仲が良くてもそれは容易に壊れることがあり、仲が良い友人だとしても個別の人間であるため、すべてを理解することはできない。

ということです。あくまでそれが現実だからです。

そしてそれまでの道筋をあくまで自分の力で切り開かなければいけなかったトーマス。

物語であっても「分からない」ということを「理解」しそれを「受け入れ」生きていかねばならない

という事実を突きつけてくるのがこの作品である。というのが私の見解です。かつて受け入れられなかった人たちがこの舞台を観て受け入れていいんだと気づくというのも素晴らしいことです。

ただ、これらの事実を提示してくるSOML、割と残酷では?と受け取った次第です。

 

そもそも論ですが、この話のとっかかりがトーマスが弔辞が書けない(なぜならスランプだから)、そしてさらにはアルヴィンがなぜ死んだのか気になるからですね。アルヴィンは橋から落ちて亡くなりますが、まあ普通に考えておかしい。幼少期に滝に枝を投げるシーンのあの橋だろうと思うのですが、とくに危ないとかそういう描写はありません。何かしらで滑り落ちてとかそういうこともあるかもしれませんが、事故的な原因よりもトーマスはアルヴィン父の葬式でアルヴィンと口喧嘩をします。というか以前よりクリスマスカードの返事を返さなかったり、アルヴィンの上京突然反故にしたり割と関係は悪化しています(歌でもはじめてのさよなら などたびたび出てきます)

アルヴィン父の体調が悪いとき(アルヴィンが本屋を継ぐための書類を整理するシーン)に明らかにアルヴィン様子がおかしいことがわかります。それらを考えると、積もり積もったものと、父親の葬式での出来事でトーマスが最後の一押しをしてしまった、もしくは留めてられなかったと考えるのが妥当かと思います。(じゃない可能性については後述します)

 

じゃあここまでいろいろ書かせる魅力はどこにあるのかというのを記述します。

1.トーマスが故郷と友人を捨て、それに幾分か後悔する物語

2.トーマの心臓

 

1.トーマスが故郷と友人を捨て、それに幾分か後悔する物語

トーマスの幼少期から大学進学、その後の流れが上京者あるあるでは?と思って。

あと単純に地元に残っている人や、上京しなくてもいい人(生まれも育ちも東京とか)ってこの一連の流れに関してどう捉えているんだろうか?というのが素直に気になります。

「失敗は故郷だ、だれにでもある」とお笑い芸人のぺこぱが言っていて、上手いこと言うもんだなと舌を巻いたんですが、それはともかくとしてこれは個人の考えや生い立ちにも関わってくるんですが、私も上京組でして。

上京組は、故郷のコミュニティに留まるメリットよりも、仲間のいない都会に出るメリットが大きいと判断して出てきたと思うんですが、ではその判断材料は何かというと田舎にいるという「劣等感」、都会への「憧れ」になると思います。

ただ、そこで出てくるのが上京を許される「環境」かどうかという点です。

トーマスは大学進学を期に街へ出る(上京と類似するものと仮定)、一方アルヴィンは父親の経営する本屋を継ぐ(稼業を継ぐため、もしくは家族のために留まる)と、幼馴染でありながら相反する選択肢を取ります。

言い換えると、トーマスは選択肢を増やすことに成功し、選ぶことができる側に立つことができました。片やアルヴィンは限られた選択肢の中で選ぶ生活となります。

この環境の違い、たとえ個々人の能力や才能の差があったとしてもそれを優に埋めていきます。

心優しい平方トーマスは、アルヴィン父の弔辞をみごとやり遂げたアルヴィンを見て確信をショックを受けます。それは、自分の作る物語の根本はアルヴィンからであり、その物語を作る能力はアルヴィンの方が上だということです。

ただそれは事実なだけであり、アルヴィンが才能を持っていようが父親の本屋は継がなくてはいけなかったし、田舎に住んでいるのであれば出版社の目に留まることも無かっただろうことは予想がつくからです。

ここで言えることは、

 

「持っている」ことと「発揮できる」ことと「認められる」ことは別次元

 

ということです。

トーマスはおそらくそこまで気づいていません。なぜなら彼はいずれもタイミングよく持っており発見されたからです。そしてそれは大学進学を期に故郷を捨てたからに他なりません。

アルヴィンほどの才能の持ち主であればと仮にトーマスが考えていたとすれば、それこそ選択肢が有り余る環境に身を置いている者の驕りに他なりません。

 

でもこれにピンとくる人はそんなに多くないかもしれないと思うのも事実です。

地域にもよるかと思いますが大学進学時に市内の大学以外は進学禁止、県外は禁止、県に隣接する県以外はダメ、そもそも自宅からの通学からしか認めないなどなど、そんな縛りをつけられた同級生が数多くいました。

そういう人々がそのあとどうなるか、コミュニティがあまり変わりません。

そして、価値観の変化もそんなに大きく変わらず、都会ほどチャンスが降ってきません。

片や都会に出て揉まれて育ち、いざ故郷に帰ってくるとかつての同級生や幼馴染たちが少し幼いように感じるかもしれません。ただそれは都会のようにしのぎを削って生きるような生き方ではなく、もう少しゆっくりとしている生活ゆえかもしれませんが。

また、上京組は故郷にいたとき以上の選択肢の多さに目をむいたのではないでしょうか?二番煎じの情報ではなく最先端のもの、その場で生まれ、キャッチできるブーム。

必然と故郷が幼く劣って見えることも少なくはないのでしょうか。

少なくとも私はそうです。

そうやって上京をして故郷には帰らない人たちを「故郷を捨てた人々」とします。

生まれ故郷は誰にでもあるのは確かですが、それを捨てるという行為は過去の自分との決別にも関係するのではないでしょうか。

過去の自分を知る人間はほとんどいないし、仮にいたとしても故郷ほど地域自治は薄いし、よくわからない噂話をするようなコミュニティも存在しない、その他大勢の他人たちの集団が都会といえます。

そして、その捨てた故郷には幼馴染を含め故郷にいる友人たちも含まれます。

故郷を捨てた人々は、少なからず故郷に愛着はあるものの、その独特な雰囲気になじめずまたは嫌気がさし、その故郷にはあまり期待の持てない希望だけが存在し、そこで限られた選択肢を当たり前のように受け取っているその人々をある意味見下してはいないでしょうか?

おそらくトーマスもその一人で、アルヴィンに向ける目もそれに近いのではないかと考えられます。

トーマスはアルヴィンの死によって自分の原点である場所を理解します。

 

あと気になるところが記憶の図書館に出てくるアルヴィンが10歳くらいのままの姿なんですが、多分トーマスが脳内再現できるビジュアルがあのくらいの年齢が限界なんだろうなということ。アルヴィン父のお葬式で会ってますが、多分ビジュアルの記憶が再現できるほど無いんだろうなーと。中学制時代の友人の思い出す顔がいまだに中学生のままだったりそういうことなんじゃないかと思います。

ましてや故郷を捨てて、街に住んで街の人々と交流している人間ならなおさらろくに故郷に帰ってこないだろうし、田舎独特の情報網(だれそれがどこに就職したとか)も耳に入ってこないだろうし、そもそも会う機会もそんなに増えないだろうし。

いい悪いの話ではなく、ただこの手の話、上京組には近々起こりうるもしくはもう既に起こっている出来事なんだろうなと思います。

そんな故郷とそこにいる友人との決別と後悔の話かなと。

 

あと、2.トーマの心臓

作品の説明は省きます。アルヴィンがもしも、スランプに陥っているトーマスのために自ら身を投げ打ったしたら?という視点です。

有名作家になったトーマス、作品が出ていないかどうかくらいは本屋のアルヴィンは把握しているはずです。そして実際に作中でスランプになっているトーマスも出てきています。このままスランプだったらトーマスはどうなっていたか・・・?多分明るい方向にはならなかったんだろうなと想像します。

故郷を捨てたトーマスが故郷に帰ってきて、そしてスランプを脱するには?

アルヴィンには強力な切り札があります。それは「先に死んだほうが弔辞を書いてもらう」という約束です。まあそんな約束を覚えていなかったら元も子も無いんですが(あとそれなりの田舎だったら半強制的に幼馴染の弔辞は地元で有名であろう有名作家に地元住民が頼むだろうなと思ったりしなくもない)

 

トーマスの作家性はアルヴィンとの出来事からくるものでした。冒頭トーマスはそれに気が付いていませんが、アルヴィンはそれをわかっている可能性があります(トーマスの書く内容は私小説に近く、アルヴィンとの出来事を書いているため)

幼馴染の死という避けられない大きな出来事、それが起きればトーマスは何か物語が書けるようになるのではないか。あまりにも捨て身なものですが、ただ関係がこじれている2人にはこれ以上の手段は残されていないように思われます。

 

それを考えての上幼馴染を助けるために自分の身を投げうったのか、その可能性や明示されたものは無いように思われますが・・・。

 

アルヴィンの死によってトーマスは作家性を取り戻し、話が書けるようになりました。

そして大きな幼馴染の存在も改めて知ることができました。

しかし、その幼馴染はもうこの世にはいません。

トーマスが得たものとその代償はあまりにも大きいものでしょう。

 

もう少しこの事実にトーマスが早く気が付いてやれば、アルヴィンの異変に気が付きそれをケアする手はずを整えていれば・・・後から思うのは容易いですが、それは無理なんですよね。過ぎ去った事実なので。

 

ただ、アルヴィンはその命を持ってして彼の作品として生き続けることができるし、その作者は永遠にアルヴィンを記憶の片隅で生きさせることでしょう。

アルヴィンはそれを望んでいたかは定かではありませんが、大切な幼馴染で素晴らしい作家ならそういう欲求も出るんじゃないだろうかなあと思ったり。

 

とまあいろいろ書きましたが、結局結末はわからないので何もわかりません!

と、色々とうだうだ考えるような魅力がこの作品にはあるんだなーと改めて思いました。

 

追記

あと田代アルヴィンの衣装がビラと舞台衣装が全然違うのですがあれは一体…?(いや舞台あるあるだけど)初演と衣装続投ならあれで撮影しても良かったのになぜ?とありとあらゆる考えうる裏事情は無視して考えたんですけど、ビラが「アルヴィンのいつもの服装」なのかな?(本屋の店主スタイル)

舞台アルヴィンはトーマスの脳内再生なのと役割を客観的に分かりやすくするためにクラレンス服かもしれない

 

 

蛇足。

初演の田代アルヴィンがやたら子供っぽい役作りが気になっていて、体は大人だけど頭脳は子供で、アルヴィンの父親から本屋などの権利をアルヴィンに移すときにトーマスが帰省するんですが、初演のアルヴィンだと忙しいから手伝うではなく、おそらく契約関係の書類の解読に難がありそうだから付き添ってる、簡単な言葉にして教えてあげるとかそういう感じにみえてしまって。「個性派」ってそういう意味なの?と思いどうなんだろうか・・・と少し考えてしまったり。

と考えると今回は圧の強さは前回からの据え置きで割と大人っぽくなったような(極端な子供っぽさは無くなった)

 

トーマスは逆に初演は田舎で育ったおおらかな少年だったんですが、再演だと高校生くらいになると都会にあこがれてませてるように見えました。エロ本の下りでアルヴィンに対して親身に接するというよりは少し下に見えたので。

あと平方トーマスはなんであんなに優しい男なんだ・・・あんな優しいと生きるの大変だろうにほんと・・・。

 

あとカテコで流石の田代さんのスムーズな司会で平方さんが面白お兄さんになっていたのが良いコンビだなーと。

ペア違いでいろいろ見たくなる作品ですねーほんと。